エウラリアの楔 1st fragment CD 『エウラリアの楔』 特設サイト

「レオン様。失礼致しますわ」

上質な木の扉を軽やかにノックする音がする。
次に扉が開き、育ちの良さそうな近習に伴われた一人の女が、この船の最高司令官の目の前に姿を現した。

「ああ、アナスタシア殿。ご令嬢はもうお休みですか?」

豪奢な軍服を身に纏った長身の男は優雅に微笑み、入室してきた粗末な身なりの女に優しく言葉をかけた。

「ええ、今しがたやっとお眠りになりましたわ。慣れない船の上でだいぶお苦しみでしたけど。 お薬まで用意してくださって、お気を遣わせてしまって申し訳ありません」
「なんの。遠路お疲れでしたでしょう。代えのドレスも用意させておりますれば、 お好きなものをお使いください。
お気に召さなければ変えもすぐに用意させましょう。
もちろん、貴女の分もね」

アナスタシアと呼ばれた女は深々と頭を下げ、レオンに進められるまま椅子に腰掛ける。
先ほど退出した近習が再び部屋に入ってくると、 香りの良いカフェ(コーヒー)を二人分、僅かな音をたてる事無く置いていき、 興味深い眼差しをアナスタシアに一瞬だけ向けまた退出していった。
扉がしっかりと閉まるのを確認してから、アナスタシアは再び口を開いた。

「それで、妹の足取りはつかめましたの?」

カフェを優雅な動作で持ち上げ、その香りを十分に堪能した後、 一口目をゆっくりと口に運びいささか値踏みするようにレオンを見るアナスタシア。
レオンはそれに対していささかも臆する事無く、色素の薄い金の髪を掻き上げ、 やや芝居がかった動作でゆっくりと首を横に振った。

「いや、さすがはナタリア殿です。『荷』を集荷したその翌日から【赤帝】は忽然と海域から姿を消しております。
どうやらアルバ家の新当主はナタリア殿の首に多額の懸賞金をかけたとか。
それ故多くの荒くれ海賊共が血眼になってあちこち探しまわっていますが、未だに誰も発見できていないそうですよ」

「今の所首尾よくやっている……というわけですわね。『アレ』は」

「なんの。彼女の手腕には舌をまくばかりですよ。
よくもまぁあんなクセのある連中を束ねていられるものです。
国籍も違えば言葉も違う。女子供から果ては老婆まで。
特にあの屈強な副船長など、あからさまな敵意の目を私に向けてきますからな。
いつか首をねじり切られるんじゃあないかとヒヤヒヤさせられる」

「まったく……いつまでたっても誰かに『お守り』をしてもらうのが当然だと思っているのですから。
困った愚妹ですわ」

眉間に皺をよせ、ふぅ、と大きくため息をつくアナスタシアを尻目に、 レオンは壁にかけられているナタリアの肖像画をうっとりと眺め、悩ましげなつぶやきを発する。

「ああ……喜んでお世話してさしあげたい……」
「レオン様……」

アナスタシアのあからさまな呆れ顔と冷ややかな声に、はっと我に返った海軍将校は、慌てて居住まいを正した。

「あ、ああ!申し訳ない。近い将来ナタリア殿に再び相見える事ができるかと思うと、 想像の翼が羽を広げてしまって。
もうどうしようもありませんな、いやお恥ずかしい。はっははは」

本当にこういう所が残念な男だわ。と心中で呟き、表面上には一切出さずにアナスタシア微笑しながらレオンを見つめた。

「で、アナスタシア殿のほうこそ、どうなのです?
聡明な貴女の事、着実に【計略】は進んでいるのでしょう?」

恋に溺れる愚かな男の顔から海軍将校の顔に戻ったレオンは、試すような視線をアナスタシアに向けた。

「まあ、ほほ。計略だなんて無粋な言い方はよして下さいまし。
愚鈍なセレスティノ様ではアルバ家の【楔】は手に余りますわ。
それに、これはアルバ家だけの問題だけでは無いのはレオン様とてご存知の筈。
【楔】を【真の楔の担い手】にお渡しするためなら、私なんでもしましてよ?」

(全くこの女だけは掴み所がない上になんとも残虐な笑みを浮かべるものだ。
味方のうちは良いだろうが、敵にまわったその時はさて、どうしたものか)

そう思案をめぐらせながら、レオンは次の言葉をアナスタシアに投げかける。
「それが、お嬢様にとっての実の兄君を弑する事になっても……ですか?」

「それも致し方ありませんわね。
ただ、幸か不幸かセレスティノ様はその手の趣味の輩が垂涎しそうなほどの美男ですから、 弑せずとも道はいくらでもありましょう……」

顔色一つ変えること無く、もしかしたら命を奪う事よりも残酷な選択肢を提示するアナスタシアに、 レオンは本当にアナスタシアとナタリアは姉妹だろうかと感じてしまう。

「相変わらず優しいお顔をして怖い事を言われるお方だ」

それを顔には決してださず、少し困ったような微笑を向けてくるレオンに、 アナスタシアはほんの少しの本心をこぼした。

「私、ベルトラン様とお約束しましたの。何があっても……守ると」
「……ああ、カフェがすっかり冷めてしまいましたな。代わりを入れさせましょう」

沈痛な面持ちのアナスタシアに、≪この話はいずれまた≫とでも言うようにレオンは近習を呼び寄せた。

「申し訳ありません、レオン様。貴方をこんな事に巻き込んでしまって」

これはアナスタシアの心からの言葉であろう。

「謝罪には及びません。いつの日か貴女を【義姉上様】とお呼びする事になるかもしれないのですから」

冗談と本気を半々にして、レオンは謝罪の不要をアナスタシアに告げる。

「ナタリアの事でしたら、今回の件のお礼に、 煮るなり焼くなり娶るなり緊縛するなり監禁するなり犯すなり本当に好きにしてくださって構いませんわ。
それでお礼になるのかわかりませんけれど」

「はは……は」

「ほほほほほ」

この国一番の豪奢な船の絢爛な部屋の一室で、乾いた男の笑い声と、 高らかな女の笑い声が響いていたのを世間知らずな近習が、小刻みに震えながら聞いていたとかいないとか…………。